Konifar's ZATSU

私はのび太の味方じゃないわ、悪の敵よ

考え方が合わないのか情報が揃っていないのか

「考え方が合わないなー」と感じた時は、相手と自分の持っている情報が揃っているかを疑ったほうがいいよね、という話を雑に書く。

たとえば「上司の理解がない」「部下の危機感が足りない」「同僚が慎重すぎる」みたいなやつ。なんでそんな考え方をするのかわからなくて憤りを感じるようなことがある。本当に考え方が合わないこともあるが、実は持っている情報量の違いによって思考結果が異なるだけで、思考回路自体に違いはなかったということも多い。

例を出してみる。プロダクトの1年後を考えてこれを絶対にやったほうがいいというボトムアップの提案が受け入れられなかったとする。

この時、実は相手は裏側で短期の売上目標を達成するために必死なのかもしれないし、ステークホルダーとのハードな交渉をしているのかもしれない。あるいは、プライベートで大変なことがあって考える余裕がないのかもしれない。逆の立場で見ると、実は提案する側はメンバーのモチベーションを考慮していて、これができないことによる組織のネガティブインパクトに危機感を持っているかもしれない。

この例だとコミュニケーションや提案をしっかりやれよという話に見えるかもしれないが、こういった「実は」「かもしれない」と表現される情報が擦り合っていないことが意外と多い。それを「考えが合わない」と勘違いしてしまったりする。

ここでいう情報というのは色々ある。過去の事例、現在の組織や事業の状況に加えて、人の感情やモチベーション、個々人の経験などもそう。そういった情報を揃えてから話すと「あーそれならたしかにね」となることもわりとある。

まあわかるけど、こういう情報揃えるのってめんどくさいし大変だよね。相手にも一理あると考えて解釈を広げて対話する必要があるので、感情のコントロールも要求される。

だからこそ、ここのコストを下げるために情報をフラットにする仕組みや対話できる文化が必要になる。しかしそれらはあくまでコストを下げる役割であり、情報を揃えるためには一定のコストを払う気持ちでいたほうがいい。相手への期待が大きいほど、そこのコストを払うことに対して憤りを感じたりするかもしれないが、まあ役職や役割による過剰な期待は持たずにやっていったほうがいいと思う。その方が自分がコントロールできて楽だしね。

にんげん、むずかしい。以上!