Konifar's ZATSU

私はのび太の味方じゃないわ、悪の敵よ

説明責任と信頼

仕事において、やる目的や内容が見えないとすごく憤りを感じることが人がいる。自分もたまにある。これは当然の感情だと思っている。

ROIの高い仕事をするには目的が何より大事だ。また、「わからない」「自分は知らない」という情報の非対称性に対する不安や嫌悪感は、誰しも持ち合わせている。これは物事を知り学ぶことによって生き延びてきた人類の本能と言ってもいい。いや、チョット言いすぎたかもしれない。

それを前提として、説明する側はしっかりと説明責任を果たそうと気を配る。いわゆる情報の透明性や風通しの良さというやつである。組織についてしっかりと考えているところはどこもすごく頑張っていて、それ自体もとてもよいことである。

一方で、説明をする側、受ける側という構図がなんだかよくないというか、フェアじゃないような気持ちになることもある。説明をする側を経験してきた方はわかると思うが、本人も正解かどうか自信がない状態で何とか説明していることも多い。

説明を受ける側は、ある程度ゆるく「まあ説明する方も大変だし一緒に補完していくか〜」みたいなスタンスでいる方がよい。その方が無駄にイライラしなくて済むし健全である。これは「相手に対する期待値を高く持たないこと」と捉えることもできるが、どちらかというと「ゆるい信頼」みたいな感じで接することができる状態が理想だと思う。

「まあよくわからないけどあの人なら何か考えてるだろ」とか、「このへんはたぶんそのうち説明されるだろ」みたいな関係性で仕事ができるとめちゃくちゃ楽。まあ実際にはそんなに信頼できないから憤りを感じるという話なんだろうけど、正しく細かく説明すること以前にそういう信頼の方が大事でレバレッジが効く。逆にいうと最低限の信頼がなければ、情報としては100点の説明内容だったとしても全体の納得度は低いという残念な話にもなりうる。

余談だが自分は15歳の時の出来事をきっかけにつよく感情的になることはなくなったように思う。姉には感謝している。

説明をする側も受ける側も相手へのリスペクトを大切に、そして次の曲が始まるのです。