Konifar's ZATSU

私はのび太の味方じゃないわ、悪の敵よ

思考速度がはやく見える人はそれまでの "思考量" が多い

何を話しても理解が早かったり、勘所を抑えた意見を出してきたりする人がいる。

そういう人を目の当たりにすると、とにかくすごくて圧倒される。一体どういう頭の作りをしているのかと感じてしまうこともある。けれど当人に話を聞いてみると、それまでの "思考量" の積み重ねによって瞬発的な "思考速度" がはやいように見えるのかもしれない。このあたりの話を雑に書いてみる。


要は、そういう人は色んなことを "一度は考えたことがある" 状態なのである。

過去に経験して "2周目以降" であれば当然考えたことがあるし、直接経験していなくとも本を読んだり人と話したり、疑似体験から自分の頭の中で想定試合を繰り返している。

すごく見える人ほど、普段の思考の量が圧倒的に違う気がする。「よし考えるぞ」と集中する時間を取る以外にも、通勤中、散歩中、ふとした会話の中で常に何かを少し深く考えてみる癖がついているように見える。

脳のどこかで常に何かをああでもないこうでもないと考えていて、それらが有機的につながって "思考量" が人よりすごく多くなっている。結果として、その場でパッと考えて答えているように見えて、実は過去に自分の中で消化したことがあるから答えられるという状態になる。

もちろんそもそも頭の回転がめちゃくちゃ速い人もいるかもしれないが、頭の回転自体も普段の "思考量" によって磨かれているのではないかと思う。このあたりは完全に自分から見た印象の話で、専門家が科学的に説明していそう。

「結局 "思考量" が化物ってコト?」と思うかもしれない。それはそう。ただ、おそらく普段から考えていることが有機的につながっていった結果すごい量になっているというだけで、実際には意外と少しずつの思考の積み重ねの違いなのかもしれない。

仕事に限らず、普段からいろんなことを深堀って考える癖をつけるのが大事なのだと思う。もちろん考えすぎてしんどくなったりしないように自分でバランスを取りながらという前提で。


完全に余談だが、6歳の息子と話しているとそんなことを考えるようになったのかと驚かされる。1週間で急に大人びたことを言い出したりもする。なぜそう考えたのかと聞いてみると、普段の先生や友だちとの関わりの中で息子なりに色々と考えていることがよくわかってチョット感動する。自分も見習って普段のちょっとした出来事や人との関わりから色々と考えていこうと思わされる。

会議で "理由" を聞かれた時に焦らないようにする

会議で何かの方針やアイデアを話した時、誰かから "理由" を聞かれてアタフタしてしまったことはないだろうか。自分は過去に何度もある。

たとえば、「こうしなかった理由は何ですか?」、「なぜこれを選んだんですか?」、「なんでこうしたんでしたっけ?」といった類の質問をされた時。理由を聞かれているのだからただ理由を答えればいいというのはわかっていても、焦って言葉が出なかったり身構えてしまったりする人もいるんじゃなかろうか。

文字で見るとただわからない部分を聞かれているだけなのだけれど、なんだか自分が試されているように感じたり、責められているような気持ちになったりするかもしれない。

落ち着いて考えればそんなに焦るようなことはないので、そういう時に焦らず対応する流れを雑に書き出してみる。

1. 意図を確認する

  • 「理由を聞いて何を確認したいのか」、「どういう考えのもとで質問をしているのか」といった "意図" を相手に確認してみるとよい
  • 理由を聞くような質問に限らず、意図を聞いて相手の考えがわかるだけでわりと落ちつけることも多い
  • 質問者が引き出しの多い人だと、相手の様子を見て「なぜその質問をしているか」という意図を自分から補足してくれるが、皆がそうできるわけではない
  • 「どういう観点で気になっているか聞いてもいいですか?」、「質問の意図を確認したいんですが、〜〜〜ということですか?」のような感じで自分から聞くためのフレーズを増やすといいかもしれない。こういうのは周囲に1人くらいは上手な人がいるはずなので、よく観察して真似するのがおすすめ

2. 理由をそのまま答える

  • 理由を聞かれているので、理由をそのまま答えればよい
  • 当たり前のことではあるのだが、ついつい質問外の内容や相手の考えを過剰に推察してしまってうまく回答できなくなることもある
  • ファクトベースで答えられると一番よいが、必ずしも客観的/合理的な理由である必要はないということも覚えておこう。内容によっては定性的な話や意志が交じることもある。"自分の頭の中にある理由" を説明すればよい

3. 宿題として持ち帰る

  • 理由を聞かれて、「たしかになんでだっけ?」と思うことはある。あるいは、考えていたはずだけれど整理できてなかったりすることもある
  • その場で考えて取り繕うように答えるより、「深堀りできていなかった」、「後ほど確認してお伝えします」といった話を潔く伝えたほうがいい
  • 自分が担当している内容にその場で答えられないと少し情けない気持ちになるかもしれないし、できないやつだと思われるのが怖いと感じるかもしれない。結構勇気がいるとは思うが、自分の経験上では「すみません、持ち帰ります」という回答が明確だとそこまでネガティブな受け取られ方はしない

むずかしい。これだけ見て解決できるなら苦労はしない。

自分の考えとしては、こういうのは最初からカンペキにうまくやろうと考えすぎないほうがいいと思う。落ちついて相手の質問の意図を確認し、自分なりに回答して、無理なら持ち帰って考える、結局そういう場数を増やしていくしかない。繰り返していけばそのうち焦らず対応できるようになる。

自分なりに理由を説明した時、相手がなんか腑に落ちないような反応になって場が変な空気になることもあると思う。そういう時、あとでどうすればよかったかセルフ反省会はしつつも、過度に自分の振る舞いのみが悪かったと考える必要はない。同じ組織に所属しているなら、質問をする人と質問に答える人はフラットな関係にある。質問に答える側が相手に伝わるように答える責務があるのと同様に、質問をする人は相手に何が聞きたいかを理解できるように伝える責務がある。「仮に自分が聞く側だったらどう工夫できたか」みたいな視点で振り返ってみても面白いかもしれない。

あと、今回は「もし "理由" を聞かれてアタフタしそうになったら」という仮定でざっと書き出してみたが、実はこういうのは事前の期待値調整のほうが重要だったりする。「今の内容の仕上がりはどのくらいか」、「どういう議論をしたいか」、「参加者からどういう意見をもらいたいか」といった目線を事前に揃えておくと、さらに焦らず対応しやすくなると思う。

単なる自分の実力不足を 組織で解決するべき大きな問題と捉えていないか

何かの問題に対して、要因を深ぼって組織的に改善するというのは正しいアプローチだと思う。

一方で、自分自身がその問題を "過度に" 重く捉えてしまっているだけで、実は組織的に改善する問題ではなかったということが過去に何度かあった。何のことかちょっとわかりづらいが、このあたりの話を雑に整理しておきたい。


一言で言えば、「ただ "自分の実力が不足しているだけ" の話を "組織で解決するべき大きな問題" と過大解釈していないか?」ということである。

たとえばあるプロジェクトのコードについて、「設計がよくなくてコードを読みづらい」、「ドキュメントが少なくて意図がわかりづらい」、「テストコードが書きづらい」と感じたとする。

これは実際にそうなのかもしれない。一方で、IDE/エディタの機能やAIコーディングエージェントを使いこなせば実はそこまで問題に感じることはないかもしれない。自分がツールを使いこなせていないだけで、過度に大きな問題と捉えてしまっている可能性がある。

自分はこういう認識のズレみたいな経験が何度かあった。今は「◯◯するのに時間がかかる」、「◯◯するのがむずかしい」といった表現で問題を認識している時は要注意だと思っていて、「単なる自分の実力不足によって問題を過剰に大きく認識していないか」といった感じで自分自身の問題認識をいったん疑ってみることにしている。

「自分の実力不足もあるとして、それは組織的に改善しない理由にはならないよね」と感じるかもしれない。それはそう。自分で解決すべきことと考えすぎて問題提起をしないのもよくない。

ただ、そういう自分が "下手くそ" なだけの状態の時ってたいてい問題を正しく認識できていないことも多い気がするんだよな。結果として "理想の姿" の解像度も低く、「じゃあどうする?」という解決策の筋も悪くなってしまう。

組織で解決すべき問題を個々人の実力不足と捉えてはいけない。一方で、個々人の実力不足の話を組織で解決すべき問題だとすぐに結びつけてはいけない。なんかどっちつかずなことを言っているし、この判断は難しい。

この判断の正答率を上げるには、つまるところ個人の研鑽が不可欠。自分が関わる周辺領域について常にアンテナを張りキャッチアップして、"問題を正しく認識できる確度" を上げておく必要がある。要は個人で "強くなる" 努力をし続けるしかないという話で、普段から本を読んだりWebから情報を仕入れたりコミュニティに出向いたりすることがとても大事なのだと思っている。

むずかしいね。"この世の不利益は全て当人の能力不足" という心持ちでがんばろう。

"犯人探し" に興味はない

「問題を "放置" しない」が口癖の同僚 が他によく言うフレーズとして、「犯人探しに興味はない」というのがある。

自分はこのフレーズが結構好きで、同僚が会議などで言っているのを見るとニヤッとしてしまう。

たとえば何か問題が見つかって原因を探っている時、あるいは意図せず誰かが責任を感じそうな雰囲気になったり言い淀んでいたりする時なんかに「"犯人探し" に興味はなくて、とにかくよくしていきたいんですよ」のように言ってくるのである。

最初は「すごいパンチの効いた表現を使う人だな」とギョッとしていたが、事あるごとに何度も言っているのを見ると「本当にそういうふうに切り替えて考える人なんだな」と思わされる。

お互いに過度に気をつかって発言の枕詞が増えてしまったり、あえて空気を読まない突っ込んだ議論をしにくくなったりするのをいちフレーズで避けられているようにも感じられて、とても助かっている。

たぶん意識的だと思うが、同じフレーズを何度も言うのは大事。ただ、なんとなく自分が同じフレーズをそのまま使うとよくないようにも思う。

こういうのはその人のバックグラウンドや年齢、声や雰囲気などが総合的に影響する。同じ言葉を自分がそのまま言っても印象がぜんぜん違ってくる。かなり "威圧的" に捉えられるかもしれないし、芝居じみていて周囲を白けさせることになるかもしれない。

自分が大事にしている価値観を人に伝えられる、かつ自分にマッチする "パンチライン" を見つけていきたいものだなと思った。

会議の参加意義がわからなくなった時のお作法

「自分この会議に出てる意味あるんだっけ?」と感じたことがある人は多いんじゃないかと思う。

この感覚を持つことはとても大事で、放置してはいけない。「参加してる意味ないよなあ」と思いながら惰性で黙って参加していると、自分だけではなくまわりの参加者もやりづらく悪影響を及ぼす。

特に定例の会議について、自分が参加する意義がわからなくなってしまったときにどう動くのがよいかを雑にまとめてみる。

1. 自分の期待役割を確認する

  • 本当に参加する意義がないかどうかを確認するために、自分が何を期待されて参加者に入っているのかを確認すること
  • 会議にもよるが、基本は会議のオーナーと直接話して確認してみるのがよい
  • Tipsとしては、「これ自分出る意味ありますか?」みたいな聞き方をしないこと。オーナーが非協力的な印象を持ってしまったり責められているように感じてしまったりすると無駄な摩擦を生む
  • あくまで "一緒に" より意味のある状態にするために「会議参加時の自分の期待役割を明確にしたい」というスタンスで接するほうがよい方向に進みやすい

1-1. 期待役割が明確な場合

  • 期待役割を理解したうえで、自分の会議の関わり方を変えるかを判断する
  • たとえば、「専門家として実現可能性観点での意見をもらいたい」という期待であれば、参加は継続しつつ基本は観察に徹するという関わり方にしようと決められるかもしれない
  • あるいは、「今後マネージャーをお願いしていきたいので "見習い" 的な位置づけで参加して慣れていってほしい」という期待であれば、他の参加者の役割や人となりを把握したり、自分がメインで入るならどうするかと考えながら議題の粒度や意思決定のプロセスを脳内でロールプレイングするスタンスで関わっていくことにするかもしれない
  • 逆に、「その役割なら自分は参加せずに議事録だけ読んで非同期で意見あれば伝えるだけでもいいかも」、「むしろ◯◯さんの方が適任かもしれないんですがどうでしょう?」みたいな感じですり合わせて、結果として不参加にするという判断もありうる

1-2. 期待が明確ではない場合

  • 明確にするのは会議のオーナーの責務ではあるが、よい会議にしていくのは参加者全員の責務。相手を責めずに一緒に役割をすり合わせていくこと
  • 開始した当初と会議自体の位置付けが変わってきて、最初は最適だった参加者も変化してくることはよくある。また、オーナーとして推進したことがある人はわかると思うが、こういう変化は意外と参加者からのほうが気づきやすいことも多い
  • 「こういう期待であれば参加したほうがいいけれど、そうでなければ一回抜けてみようと思うんですがどうですか?」みたいな感じで仮説を投げながら確認していくとよい
  • あるいは、こういう時はたいてい会議の位置づけが曖昧になってきていることもあるので、一度 "会議自体の振り返り" をすることを提案してみてもいいかもしれない

2. 関わり方を変える

  • 期待役割を明確にしたら、"参加をやめる" という選択肢も含めて自分の関わり方を変える
  • 実際に関わり方が大きく変わらなくてもいい。大事なのは、惰性でなんとなく参加し続けるのではなく意思をもって参加すること

2-1. 参加し続ける場合

  • すり合わせた期待役割を参加メンバーに表明しておくとよい
  • 「こういう役割で参加しているのでいつでも話を振ってほしい、それ以外は基本的に内容の把握に努める」とか
  • 期待に合わせて必要な時にちゃんと関われるようになるし、発言していなかったとしてもスタンスが自他ともに明確なので心理的にもやりやすくなる

2-2. 参加をやめる場合

  • 一定期間経ってからやめてどうだったかを必ず振り返ること
  • やめてみてしばらく経つと、「意味ないと思ってたけど、意外と効率よく状況を把握できてよかったかもな」みたいな感じで初めて気づけることもある。この感覚もまた放置してはいけない
  • "一時的に" やめてみて状況を振り返り、必要であれば「こういう役割で参加したほうがよいと感じたので再度参加します」とオーナーに伝えてよりよい関わり方に変えていくとよい

「無駄な会議の参加は基本的にすべてやめるべき」という考えは正しい。一方で、「意味ないやろこれ」と感じる時は多少の憤りや怒りみたいな感情が入り混じってしまいやすいので、少し冷静になる必要がある。

"過激派" になりすぎて、本来自分が参加する意義があるかの判断をすっとばしてガンガン "断捨離" していくのもよくない。

参加し続けるにせよやめるにせよ、結局定期的な振り返りが大事。参加者の立場からこういった話を切り出すのはむずかしいこともあるので、会議自体の振り返りを定期的に行うのがいいのかもしれない。

ちなみに、会議で発言しなかったら「君は次から参加しなくていい」と宣告されるみたいな描写を見聞きしたことがある。ひとつのわかりやすい判断基準ではあると思うが、自分のこれまでの経験からするとこれを厳密にやってもあまりワークしないんじゃないかなあと思っていて、「参加するうえでは主体性を重視しようね」くらいの ATI (圧倒的当事者意識) の話として捉えている。

"ない"、"該当しない"、"やらない" を明確に示す

何かに "該当しない" ことを明記したり、 "やらない" という意思決定の記録を残したり、質問や意見が "ない" という意思表示をしたりといった感じで、 "ない" ことを明確に示すのって大事だよなと思っているんだけれど、まだあんまり考えがまとまっていないので雑に書いていってみる。


人によっては当たり前すぎて何を言っているのかと思われるかもしれないが、意外とこのあたりの感覚が揃わないことはある。

たとえば何かのドキュメントテンプレートで該当しない不要な項目があった時は、空白にするのではなく "該当なし" と記載するか項目ごと消してしまうほうがいい。記載するか消すかどちらにするかはテンプレートを決めた組織の方針として決める話なのでどちらでもよいんだけど、明確な意思を残すことが大事。

不要なチェック項目をチェックせず空白にするのではなく取り消し線を引くみたいなのも同じ。"ない" ことを明確に示さないと、見落としや忘れと区別がつかない。小さなことではあるが、まわりの人が理解するコストが少し増えてしまう。

「◯◯をしない」という意思決定の記録なんかもそう。最終的に「やる」と決まったことは明記されても、意外と「やらない」と決めた "捨てた選択肢" は残らなかったりする。そうすると、あとで見たときにどこまで検討した上で意思決定したのかを理解するのに時間がかかってしまうかもしれない。

「質問はありますか?」と聞かれた時に、「自分はありません」と答えるとかも同様。これはやらない人のほうが多い気はするんだけれど、リードやファシリをする人にとってはこういう意思表示をしてくれる人がいるとマジで助かる。反応がないと、まとまってない/理解してない/関心がない のと区別がつかない。意図せずまわりの人の心理的負荷を上げてしまうことになる。

「本当にないか自信がないな」とか「他の人があるかもしれないのに自分が答えてしまっていいんだろうか」とか色々考えてしまって、「ない」という意思を示しづらいという背景もあるかもしれない。わかる。このあたりは、「意思表示する人がえらい」、「8秒待っていなかったらなしで確定」みたいな感じでチーム内での共通認識を作ることでも改善できるとは思う。

一方で、それはそれとして "ない" 時は自分から率先して「ありません」と意思表示をするスタンスでいたほうがいい。逆説的ではあるが、そういうスタンスでいると受け身じゃなくなりやすいというか、色んなことを自分ごととして真剣に考えるようになる。

めちゃくちゃちっさいことかもしれないけれど、 "ない"、 "該当しない"、 "やらない" を明確に示すことで周囲の負担を減らせるし自分の主体性も自然と上がる。なんとなくそんな感覚があるから大事だと思っているのかもしれない。だいたいまとまった気がするのでこのあたりで終わりにする。アデュー

"いつ終わるか" は答えられなくとも、"いつ終わらせようと考えているか" は答えられるようにする

何かタスクを任されたとき、実際に "いつ終わるか" はわからなくてもいいが、 "いつ終わらせようと考えてるか" は常に答えられるようにすべきという話を雑に書いておきたい。


任されたタスクについて「いつ終わりそうですか?」と聞かれても、その時点ではわからないことはよくある。

この時、「うーん、まだ何とも言えないですね」みたいに答えるのは悪くはないけれど、セットで「いつ終わらせるつもりで進めていくか」を伝えられるほうがいい。

たとえば、「まずは今日いっぱい調査してみてから報告しますね。その結果次第ではありますが、いったん来週いっぱいくらいで終わらせるつもりで考えていきます」みたいな感じ。

「そんなことしたらいつの間にか必達の期日にされて、ちょっとスケジュールを見直しただけで"遅れた"扱いされるから嫌だ」という人もいると思う。めちゃくちゃわかる。わかるんだけど、それでも「いつ終わらせようと考えている」という自分なりの計画を自分から伝えていくのが大事。

「これができないと仕事を任せられない」という任せる側の理由もあるんだけれど、任せられる側としても "自分で決めていく" ことに慣れていくメリットは大きい。これができるようにならないと、「常に相手から期日を課される」状態になってしまう。何でもそうだが、自分でコントロールできる領域を広げていったほうが気持ちは楽になる。もちろん自分で提案してやりきろうとするのは勇気がいるし緊張もするのだけれど、避けずに数をこなして慣れていったほうがいい。

そのうえで、自分から状況を伝える "攻めの報連相" ができるようにようになると、期日がいつの間にか必達扱いになっていてつらい...みたいな状況は避けられる。これは進め方のスキルの問題であって、「いつ終わらせようと考えているか」を伝えない理由にはならない。スキルを磨いていこう。

また、「終わらせようと考えている」という "ターゲット" の状態から、どこかのタイミングで「終わらせる」という "コミットメント" に変える必要もある。これもまたとても勇気がいる宣言だし避けたくなる。やってみてうまくできないこともたくさん起きる。しかし繰り返していけば必ず少しずつ慣れていって自分の振る舞いとして身につけられる。

「いつ終わりますか?」と聞かれても答えられないこともある。時には憤りを感じることもあると思う。それでも「いつ終わらせる予定です」と答え続けていくと、いつか振り返ったときに積み重ねてきてよかったなと感じられるようになると思う。少なくとも自分がすごいなと感じた人は皆こういった "宣言" をし続けていた気がする。

"いつ終わるか" は答えられなくとも、"いつ終わらせようと考えているか" は答えられるように数をこなしていこう。プロとして────